楽しく遍路

四国遍路のアルバム

(H20夏3)道々の風景 吉良川 羽根岬 加領郷 奈半利

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    平成20年(2008)7月1日 2日目のつづき

道標
26番札所・金剛頂寺から降りてきました。
これより国道55号と、55号に並行して残る旧土佐東街道を歩いて、神峯寺へ向かいます。ただし今日の泊まりは、奈半利です。宿は昨春の区切り歩きでお世話になった→(H19春1)、山本旅館さんに予約してあります。

羽根岬方向
奈半利までの途中には、吉良川、羽根、加郷領など、古いたたずまいを残す街があり、楽しみです。また羽根岬越えの道も、石畳が残っているなど、昔の風情を残しているとのことで、楽しみにしています。
とはいえ、あまりのんびりもできません。現在時刻は11:10。奈半利までの距離は、17㌔半。急ぐ必要はありませんが、ゆっくりしすぎると、日暮れての宿着となってしまいそうです。その辺、うまく塩梅しながら、旧土佐東街道の旅を楽しみます。


出穂
やっぱり高知は早い、もう穂が出ています。関東より、一カ月近くは早いと思われます。
始めは、二期作かな、と思ったのですが、違っていました。聞けば、「早期栽培」なのだそうです。今頃が出穂の最盛期で、8月上旬には刈り入れるとのことです。
  土佐はよい国 南をうけて 年にお米が二度とれる
と唄われた二期作は、昭和36年(1961)頃をピークに、以後、徐々に下降線をたどり、昭和53年(1978)には、事実上、終焉したとのことでした。農業従事者の高齢化、食生活の変化(米離れ)などのためですが、決定づけたのは、国の減反政策でした。


木骨
二期作に代わって?盛んになるのが、施設園芸農業です。
ガラス室やビニールハウスを利用する農業、とでも言えましょうか。
初期のハウスは、ご覧のような、木骨に油紙を張りつけたもので、加温燃料は薪だったと言います。しかし、ある地域の記録では、昭和29年(1954)頃には早くも、油紙がビニール張りに代わり、昭和35年(1960)頃には、加温燃料がコークスに代わったとのことです。(コークスに代わった頃、すでに一部では、重油の使用が始まっていたとも言います)。
写真は、禅師峰寺から種崎へ向かう辺りに残っていた、木骨です。



ハウス
高知の施設園芸農業には、下地がありました。トンネル栽培です。
高知では、冬期温暖で日照時間が長い気候を利用して、大正時代から・・明治時代ともいいます・・トンネル栽培がされていたそうです。
畝に支柱を立てて油紙(後にはビニール)をかぶせ、小温室をつくる栽培方法です。
なるほど、ミニハウスが既にあり、それを下地に、ハウスが導入されたというわけです。

やぶつばき
藪椿が実をつけていました。秋にもなれば、厚い果皮が割れて、大きな種子が三つくらい姿を現すことでしょう。椿油の原料となる種子です。
ただし、この辺が椿油の産地ということではないようです。高知県では、足摺岬周辺が、産地として知られています。


貼り紙
西寺(金剛頂寺)の貼り紙です。
「きゅうり封じ」は、弘法大師が中国から伝えた、厄除けの秘法だといいます。きゅうりに病苦(病苦をもたらす怨霊)を封じ込め、大地に返すのだそうです。
そのやり方は、HP「京都に乾杯」によれば、
・・参拝者はきゅうりに名前や病名などを記入し祈祷ののち家に持ち帰り、体の悪い部分をそのきゅうりで撫で土に埋めて病気平癒を祈願します。病を封じ込めたきゅうりを地中に埋めて土に返すことで病も消滅するとされ、体力の衰えやすい夏、とりわけ土用の丑の時期に開催されています。・・とのことです。
 


法輪を配したインド国旗
ところで、なぜ「きゅうり」なのでしょうか?
一つには、きゅうりの切り口が、仏法のシンボル・法輪に似ているからであるようです。つまり「対病祈祷 きゅうり封じ」とは、仏法のなかに、病を封じ込める祈祷なのでしょう。
また一つには、きゅうりは土中で早く分解するから、でもあるようです。きゅうりの成分は9割方が水分なので、分解が早いのです。病を封じ込めたきゅうりが早々に姿を消すことは、病が早々に癒えることを暗示するの
でしょう。

三つ葉葵
きゅうりの切り口は、また、徳川家の家紋・三つ葉葵にも似ているといわれます。
そのため、江戸時代、武士はキュウリを食べなかった、との話があります。主家の紋を食べるなんて、畏れ多いということでしょう。
なお、キュウリに熱冷ましの効果があるのは、事実のようです。

枇杷畑
枇杷の畑です。1月半ほど前の土佐路では、花が咲いたような枇杷の袋掛け(下掲写真)がみられたのでしたが、どうやらこの間に、収穫されたようです。枇杷は3月上旬〜4月中旬に袋掛けされ、6月中旬に収穫されます。
ただし、この写真、本当に枇杷の畑でしょうか。記憶ではそのつもりなのですが、改めてみると、柑橘類の畑にも見えてきました。間違っていたらごめんなさい。


一カ月半前の写真(中土佐にて)
一斉に花が咲いたかのような、枇杷の袋掛けです。
ご覧のように、琵琶も柑橘類と同様、斜面に植えられることが多いのです。


国道55号と旧道
歩いてきた道を振り返って撮った写真です。右が国道55号。左が旧道(土佐東街道)です。
黒耳大師堂から2㌔余の地点ですが、時刻は、11:50。 歩き始めて40分ほどが経過しています。これが、まあ、私たちの標準時間でしょうか。


アイスキャンデー
暑さに負けて、普段は食べることがない、甘いアイスキャンデーを食べました。
梅雨遍路を予想して来たのでしたが、気温が上がっています。もしかすると夏遍路になってしまうかもしれない、そんな予感がしていました。
実際、この3日後の7月5日、・・その時、私たちは29番国分寺辺りを歩いていたのですが・・四国地方は異例の早さで、梅雨明けします。

傍士
交通標識に在る「傍士」(ほうじ)は現・吉良川町の地名ですが、その地名由来は、
・・
集落の境界や四至(四隅)を示すために立てられた「傍示石」にあるといいます。傍士石の在る所が、傍士という土地になったわけです。
では、此処に在った傍士石は、どことの境界を示していたのでしょうか。 
たぶん旧・吉良川(地名)との境界を示していたのです。この先に東ノ川という川が流れており、これを渡った先が、吉良川(旧)だったのです。
なお東ノ川は、吉良川(旧)の東側を流れる川との意で、吉良川の西側には、西ノ川が流れています。


東ノ川に架かる橋
そろって日傘の女性が二人。風情があります。
人にカメラを向けることは、めったにしないのですが、思わず、撮らせてもらいました。私の大好きな写真です。
・・もしかしたらお二人は、吉良川生まれの吉良川育ち。幼友達なのかもしれません。
・・それとも、同じ頃に吉良川にお嫁に来て、仲良しになったのでしょうか。


吉良川の街(平成19年撮影)
吉良川は、明治から昭和初期にかけて、土佐備長炭の生産地として、また集積地として、栄えたといいます。備長炭は、海路、京阪神に出荷され、その帰り船は、生活日用品を運んできました。
備長炭産業にかかわる人たちと、その人たちの暮らしを支える人たちの街として、吉良川は、栄えたのです。写真の両側町は、かつての、備長炭を入れる蔵、備長炭を商う問屋、日用品を商う小売店などであったでしょう。


吉良川の街(平成19年撮影)
戦中、吉良川は空襲を受けましたが、・・お大師さんに守られてでしょうか(後述)・・大きな火災は、発生しなかったそうです。
そのため古い町並みが残りました。「吉良川のまちなみ」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。


吉良川のいしぐろ塀(平成27年撮影)
吉良川の街を特徴づける「いしぐろ塀」です。写真は比較的新しいもので、装飾性が強く意識されています。
「いしぐろ」の語源には・・「石蔵(いしくら)」の転ではないかなど、諸説あるようですが、私は、・・石を積み上げた塀・・の意ではないかと思っています。「ぐろ」は、藁を積み上げた「わらぐろ」(前号参照)の「ぐろ」と同じです。なお「いしぐろ」については→(H27春7)に、少々まとめてあります。ご覧ください。

火伏せの呪い
  霜柱氷のはりに 雪のけた 雨のたるきに 露のふき草
                    吉良川消防分団
ひらがなを漢字に直すと、次のようになります。
  霜柱氷の梁 雪の桁 雨の垂木 露の葺き草
弘法大師作と伝わる、火伏の呪いです。この家は、梁も桁も垂木も屋根のふき草も、みんな水だから、「燃えない」というのです。
火伏といえば、「懸魚」(後述)や、上掲「いしぐろ塀」の写真にみられる軒瓦の巴紋もまた、燃えないための工夫です。巴は渦巻きを表し、その周りの玉は、水玉を表します。
吉良川消防分団が配布したこの貼り紙は、各戸が、ほとんどもれなく貼っていました。この街、お大師さんに守られています。


つばめの巣
ツバメは、カラスなどの天敵から子を守るため、人間を利用します。写真は、天敵が近寄れぬように、家の中につくられた、ツバメの巣です。もう子ツバメはいませんでしたが、フン除けの籠は、つるしたままです。
ツバメが巣をつくったら、その家は家内安全、火事はおきないと言われています。だから来年も間違えず来てもらえるよう、そのままにしてあるのです。
  ♬柳青める日 ツバメが銀座に飛ぶ日・・
今ではすっかり珍しくなったツバメですが、
かつては東京の銀座も、ツバメが飛びぬける街だったのです。この歌は、昭和22年(1947))公開の映画『音楽五人男』の主題歌「夢淡き東京」です。藤山一郎さんが歌いました。


町家の格子
町家の格子に、さりげなく花が活けてありました。この花ひとつで、この家も街もが、生きてきます。
吉良川は、ただ通過するだけではもったいない街です。


通り庇(北さん撮影)
庇が表通りにせり出して、雨除け、日除けにになっています。この庇下は、雨が降れば雨宿りができ、日が照れば、・・通りに落ちる影をご覧ください・・その日陰で涼むこともできる場所だったのです。
私たちも縁台で、ちょっと休ませてもらいました。

町家のばったり床机
支えを外してバッタリ降ろすと、そこは縁台になったり、商品を並べる棚になったりしたのです。それで「ばったり床机」といいますが、商品棚の場合は、「揚見世」などとも呼ばれたようです。もちろんバッタリ床机は通り庇の下にあり、雨やから守られています。


町家の虫籠窓(むしこまど)
江戸時代、2階建てが制限されていた町家では、物置などとして利用される「厨子二階(つしにかい)」が、中二階のように取り付けられていました。その空間への通気や明り取りとしてついていたのが、虫籠窓(むしこまど)です。その形状からついた呼び名でしょう。
町家に二階建てが制限されたのは、武士を上から見下ろすことが、憚られたからだそうです。


コーヒーブレイク
前号でお伝えした、蔵空間茶館・遍路「宿」です。北さんのリクエストでコーヒーブレイクとしゃれこみました。たしか大阪から帰郷されたご夫婦が、近頃開かれた宿・茶館であったと記憶します。
備長炭の原木がウバメガシであること、この辺にはウバメガシがよく生育していたことなどなどを、ご夫婦から多くを教わりました。



郵便局
小一時間もつづいたコーヒーブレイクの後、私たちは歩き始めました。
写真は、いわゆる「洋風建築」です。大正15年(1926)に建てられ、昭和40年(1965)頃まで、郵便局として使われていたといいます。ただし赤い郵便ポストは、・・寄贈されたもので使われていません。・・とのことでした。
ここで行われた、北さんと私との会話:
・・(私)
電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのもみんなわたしが悪いのさ・・、あれは誰でしたっけ?
・・(北さん)〽鶴田浩二や錦之助、それよりもっといい男の、柳亭痴楽だよ。
・・今じゃ絶対、〽みんなお前が悪いのさ・・、だよな。
・・だな。
痴楽つづり方狂室』は、昭和30年代後半頃の人気番組です。


〒マークの瓦
大正末期の吉良川郵便局。屋根瓦に「〒」印がついています。
〒のマークは明治20年(1887)に制定されたもので、かつて郵便や通信事業を管轄していた「逓信省」(ていしん省)の「テ」を図案化したものなのだそうです。
なおポストが赤いは、㏋「mailmate」によると、「郵便箱」の文字を「垂便箱」(便を垂れる箱)と読み間違えて、ポストに用を足してしまう事件が頻発。その対策として、それまでは黒だったポストを、赤に変えたのだそうです。「郵便」という語を知らない人が、まだ多かった、そんな時代の話です。


トイレ
「垂便箱」ならぬ、公衆トイレです。
立派なトイレを造ってくれました。ベンチもあります。花も咲させてくれています。まさにレストルームです。


羽根岬
羽根岬が近づいてきました。国道55号は岬を回りますが、へんろ道(旧土佐東街道)は岬を越えます。
岬を越えるということは、海成段丘の段丘崖を登り、段丘面を歩き、向こう側の段丘崖を下る、ということです。段丘崖は、当然のことながら、急坂になります。

岬越えへ
羽根岬を越える道・・中山峠道というそうです・・は、岬の標高100㍍ほどのところを越えますが、そのうち標高70㍍ほどまでが、段丘崖です。
段丘崖を登る厳しさについては、天恢さんが前号のコメントに書いてくださいました。
・・わずか500mの遍路道なのに、土砂降りのぬかるみ道の険しい急坂でした。 延べ21回になる遍路道中で最高・最悪の難行・難所として、今でも記憶に留めております。 


振り返ると
・・参拝後も、さらに雨は強く降り続き、真っ暗な照葉樹トンネル道、誰とも会わぬ淋しい遍路道を、とにかく海岸線へ向かって降りて行きました。やっと道の駅「キラメッセ室戸」というバス停に辿り着いたときはホッとしました。
天恢さんの記述は行当岬ですが、その厳しさは、羽根岬にも当てはまります。「苦」をも楽しむとはいえ、苦しい時は、ひたすら苦しいのであって、楽しんでなんかはいられないのです。



忸怩たる思い
ありました!実は歩きながら、この札を探していたのです。
平成19年(2007)、この道を歩いていた時のことです。私は出会ったおじいさんに、ウソをついてしまいました。→(H19春3)
すると、どうでしょう。その私の目の前に、この札があったのです。
私は恥じて、足早に立ち去ったのでしたが、今回はカメラに写し、戒めとして残します。


羽根岬
登ると、そこには段丘面がひろがり、畑が耕されていたりします。


加領郷漁港
降りてきました。
途中の写真が抜けているのは、上り同様、下りも急坂だったからです。写す余裕がありませんでした。
実は石畳のところでは、・・ここ撮っておかなきゃ・・と思ったのですが、思った瞬間、滑り落ちていました。用心から注意が逸れてしまったからです。幸いザックと菅笠がクッションになってくれて、怪我はしませんでしたが、ヒヤッとした瞬間でした。
写真の大看板には、「未来まで 加領郷の町 美しく」と書かれています。


加領郷漁港
「加領郷」の地名由来を調べていると、元は「加漁郷」だったという記述に出会いました。
江戸時代の始め頃、この地はまず、木材伐採目的で拓かれたのですが、沖に格好の漁場があることがわかり、・・林業に加えて漁業も・・始めたのだそうです。それでこの地は「加漁郷」となったのですが、いつの間にか「加領郷」と書くようになった、というのです。

加領郷漁港
江戸時代から漁業が盛んだったとのことですが、その頃の加漁郷漁港は、「天然の良港」であったとのことです。野中兼山の築港ではなかったかと、調べてみましたが、兼山の事業に、加漁郷漁港は入っていませんでした。
加領郷の本格的な港湾施設は、近代になって整備されたもののようです。



加領郷小学校
港で休んでいると、土地の人からバナナのお接待を受けました。そこに愛知の挙母(ころも)さんが自転車の遍路と話しながらやってきたので、お裾分け。
拳母さんとは、昨夕、御厨人窟で会って以来です。→(H20夏1)野宿装備を担いで、津照寺泊まりの私たちに追い付いてきたのですから、たいしたものです。自転車の方は初対面でした。
4人で歩きはじめました。北さんと私は奈半利の宿に泊まりますが、挙母さんと自転車の方は、奈半利の公園で野宿です。
なお、看板の加領郷小学校は、この12年後、令和2年(2020)度より、休校となります。



網元宅(平成27年撮影)
網元のお宅です。説明看板に、地下は物置、一階は生活空間、二階は来客用と魚見として使われる、と記されていました。高い位置に建っているのは、魚見の便を考えてのことだそうです。
破風に、懸魚(けぎょ)がついています。懸魚とは、(H27春7)の説明を踏襲して記すと、以下のようなものです。
・・懸魚は中国伝来のものです。中国では、棟木の木口を保護するためと、縁起かつぎもかねて、魚を象って取り付けられていました。「魚」の中国語音はが
YU で、「余」(ゆとり)と同じ音であることから、魚の形を取り付けて、金運を願ったのです。


懸魚(雪蹊寺近くで撮影)
・・日本に伝わってからは、(日本語の「魚」と「余」は音が違いますから)、縁起の意味が変わってきました。魚が水を連想させることから、火除けのまじないになり、その形も蕪型、梅鉢型など、いろいろとなりました。むしろ魚型は、珍しいくらいです。
・・なお懸魚は、かつては、神社仏閣、上級武家の家などにしか許されませんでした。そこで「上級ではない家」では、懸魚を懸ける代わりに、「水」の文字を掲げて火除けとする、などのことが行われました。(その写真、あるはずなのですが見つかりません。見つかったら、掲載いたします)。


奈半利の材木業
高知県の県木は「魚梁瀬(やなせ)杉」です。奈半利川と、その兄弟川・安田川上流の、馬路村魚梁瀬が産地なので、そう呼ばれています。それがいかに良木であるかは、その杉林が、「鉢巻落とし」とよばれることからもわかります。・・山本旅館の女将さんに教わったのですが・・その見事さに、杉を見上げている人の鉢巻が落ちてしまうことから、そう呼ばれるのだそうです。
奈半利は、その魚梁瀬杉の集散地として、近世、発展しました。かつては、この辺には貯木場、原木市場、製材所、運搬施設などが集まり、また、それらに従事する人たちの住宅、その暮らしを支える諸施設が、立ち並んでいたと思われます。写真の奈半利木材共販所は、その数少ない生き残りかもしれません。

 


財を成した!
奈半利の、というより日本の林業にとどめを刺したのは、
昭和39年(1964)の「木材輸入の自由化」だったといいます。安価な外国産木材が、国産木材に取って代ったのです。次号で記しますが、奈半利川や安田川沿いに敷かれていた、木材運搬用の森林鉄道も、同年、昭和39年(1964)、その運行が止まりました。


お大師さんの厄除け札
  この家を除けて通れよ 疫の神 
  我がおもかげの 阿(あ)らんかぎり者(は) 
  南無大師遍昭金剛
奈半利では、厄除けの札を見かけました。奈半利もまた、お大師さんに守られる街なのです。


宿へ
少々遅くなりました。宿へ急ぎます。


山本旅館
私は二度目、北さんは初めての山本旅館です。私が北さんを女将さんに会わせたく、是非にと誘ったのでした。なにしろ女将さんの話が面白い(考えさせられる)からです。結果は、思った通りでした。私が誘ったことを、北さんは得心してくれました。→(H27春7)
ところで・・リライト版なので書けることなのですが・・平成27年(2015)、私は、三度、お世話になりたいと連絡したのですが、どうやら廃業されたようで、連絡が取れませんでした。ご夫婦の近況は、遍路時、ご近所の方の話で知ることができましたが、お会いすることは、しませんでした。


しんまち橋からの風景(女将さん作)
どうやら廃業は、私たちがお世話になった、すぐ後の事だったようです。HP「四国歩きの記録といろいろ」の2009-4-21投稿の記事に、次のような記述がありました。
・・
4月30日、奈半利町の山本旅館は廃業していました。5年連続お世話になって、年賀状も頂いていたのでがっくりです。・・とあります。投稿日の2009年は、私たちが宿泊した翌年です。
なお旧山本旅館の建物は、2025年、ゲストハウス・junosとして改装され、開業されています。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
「道々の風景」と題してまとめてみました。札所が一ヶ寺も入っていない遍路アルバムですが、いかがでしたでしょうか。
作業をしつつ思ったのは、撮りはぐった写真の多いことでした。例えば、吉良川では町家の全景写真が撮れていません。瓦を左葺きに葺いた屋根の写真、各家毎に異なる格子の模様も撮っていませんでした。移動しながらのこととはいえ、残念なことではあります。ただし危険な個所での撮りはぐり、これは仕方ありません。
さて、次号更新は5月27日を予定しています。内容は未定です。


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