楽しく遍路

四国遍路のアルバム

(R7秋9)死度道場 志度寺

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令和7年(2025)11月17日 5日目のつづき

86番志度寺
この寺が「志度寺」となるのは、伝承では、持統天皇の7年(693)のことだそうです。藤原房前が行基とともに堂宇を整え、寺名を「志度寺」に改めたといいます。
「志度寺」となる前は、「死度道場」と呼ばれていたそうですが、この名づけは、藤原房前の父・藤原不比等よるといいます。天武10年(681)、不比等が此処に妻の墓を建立し、「死度道場」と名づけたとのことです。
なお「死度」の「度」は、
「渡る」という意味で使われています。観音様の補陀洛浄土へ「渡る」のです。


扁額「補堕落山」(平成21年撮影)
不比等が墓を建てて祀った「妻」は、房前の母であり、寺に伝わる海女の玉取り伝説」に言う「海女」です。
海女は不比等の願いを受けて、「面向不背(めんこうふはい)の玉」を龍から取り返し、房前の出世を不比等に託して死ぬのです。

つまり房前はそんな母を供養して、「死度道場」を「志度寺」に改めた、ということです。「海女の玉取り伝説」については、後にもう少し記します。
なお「死度道場」以前の呼び名は、凡園子尼の創建譚が伝わってはいますが(前号参照)、わかりませんでした。



志度寺仁王門
志度寺仁王門に、こんな伝承があります。
・・天正11年(1583)、長宗我部元親が志度寺を焼き討ちしようとやって来て、馬に乗ったままこの門をくぐろうとしたら、
・・馬が立ち止まり、動こうとしなくなった。
・・両脇の仁王像が発する後光を畏れ、動けなくなったのだ。
・・そうと知った元親は、志度寺の
御威光を畏れ、焼き討ちの中止を下知。礼拝して立ち去った。
というものです。
ただし、元親による焼き討ちは、次に記すように、実際には行われたようです。この伝承は、仁王像の素晴らしさ(運慶作ともいう)を伝える譚として、理解すべきなのでしょう。


参拝路
志度寺の公式HPは、次のように記しています。
・・
天正年間(1573-92)に(長曾我部軍による)兵火にかかりましたが、1670-71年(寛文10-11)に高松藩の松平頼重の帰依をうけて諸堂が再興されました。・・と記しています。
また柴谷宗叔さんは、「澄禅著『四国辺路日記』を読み解く」からお借りすると、
・・(長曾我部軍による)天正の兵火にかかったのは(讃岐では志度寺を含む)13寺社で、四国中で(讃岐が)一番多いが、日記を読む限りは大興寺、大窪寺以外は荒廃している様子はなく、復興が早かったのだろう。・・と記しておられます。


配置図
さて私は、仁王様のお許しを得てか、畏れ知らずにか、・・たぶん後者ですが・・山門をくぐり、(上掲写真の)木が生い茂った参拝路を進みます。
たいていの寺社では、山門の先は視界が開けており、正面に本堂や大師堂が見えていたりするものですが、志度寺は違います。本堂は、ここからは見えません。この道を進んだ先を左折すると、見えてきます。
私は、まず本堂に進みます「海女の墓」にもお参りするつもりの私には、遠回りになるのですが、やはり、・・まず本堂と大師堂に参拝・・、これが
順番というものです。その後、閻魔堂→奪衣婆堂→海女の墓→細川氏寄進の庭園、とめぐります。

本堂(平成21年撮影)
左に曲がると、本堂が見えてきました。
本尊・十一面観世音菩薩の由来は、前号・地蔵寺のところでふれましたので→(R7秋8)、ここでは手前に写っている橋について、私の思い付きを記してみます。
寺社に在る橋は、多くの場合、なんらかの結界を表象しています。とすると、観音堂の前に架かるこの石橋は、
  観音浄土・補陀落山への入り口を表象している、
と、私は考えてみるのですが、どうでしょうか。


志度寺図
そして、橋の下の窪みは、上掲の配置図では「堀」と記されていますが、かつては水が満ちており、
  「海」を表象していた

と考えてみるのです。かつて補陀落浄土は海の向こうに在ると信じられ、補陀落渡海が盛んにおこなわれたのは、ご存じのとおりです。
写真の「志度寺図」は、寂本さんの『四国遍礼霊場記』からいただいたものですが、「堀」には、水が描かれています。参拝者は、この「海」を渡り、十一面観音菩薩のおわす補堕落浄土・本堂へ向かうのです。

本堂
「さぬき市ケーブルネットワーク」は、本堂を称賛して、次のように記しています。
・・桁行7間、梁間5間、入母屋造、本瓦葺。県下の近世建立の仏堂としては唯一の七間堂で、前面には軒唐破風をつけた3間にわたる向拝を設け、その規模、容姿はともに群を抜いている。
なるほど、なかでも「3間にわたる向拝」と、それを支える4本の向拝柱が、私には印象的です。これらが発する荘厳感、ドッシリ感、それでいて奢ることのない田舎感、ノンビリ感が、私は大好きです。


大師堂
本堂の隣に大師堂があります。大師堂の後ろに一部見えているのは、弘法大師御手植えと伝わる大楠(次の写真)です。
大師が当寺を訪れたのは、弘仁年間(810-24)であったといいます。藤原房前が「死度道場」を「志度寺」に改めてから、約120年ほど後のこととなります。
当時、大師は40歳代であったでしょう。伽藍の修理をした上で、志度寺を霊場と定められた、とのことです。

大楠(平成21年撮影)
大楠は、その時に植えられたとすると、樹齢は約1200年ということになります。
あるいは、この樹は二代目であるなどということも、あるかもしれません。


閻魔堂
本堂、大師堂に向かって右側に、閻魔堂があります。
前号に記した志度寺創建譚に、
・・実は、(十一面観音像を彫出した)仏師の童子は十一面観音菩薩の化身で、
・・(お堂を建てた)大工の童子は、閻魔様の化身であったのだそうです。
と記しましたが、
実は譚には、もう一つ先がありました。実は実は、閻魔様の本地もまた、十一面観音菩薩であったというのです。
というわけで、この閻魔堂に祀られている閻魔様は、頭上に十一面の仏面をいただいているのです。閻魔様の本地が地蔵菩薩であるとは、よく耳にしますが、ここでは十一面間菩薩なのでした。ぜひとも拝観したかったのですが、係の方がおられず、残念なことでした。

奪衣婆堂(上掲の志度寺図では姥堂)
本堂と大師堂に向かって(閻魔堂とは反対の)左側には、奪衣婆堂があります。
奪衣婆(だつえば)は、・・三途の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取り衣領樹(えりょうじゅ)の上にいる懸衣翁(けんえおう)に渡すという鬼婆(広辞苑)
・・だとのことです。
この場合「着物」は、生前の「虚飾」・・地位、名誉、偽り、おごりなど・・を意味します。つまり「着物」を奪われるということは、ありのままの自分が裁かれる、ということでしょう。
閻魔堂といい奪衣婆堂といい、その存在は、志度寺がかつて「死度(渡)道場」であったことを彷彿させます。なお、これとの関連で、前述の「堀」は三途の川であったか、とも考えましたが、奪衣婆は三途の川の此岸側にいることになっていますから、やはり「海」としておきます。


海女の墓
前記の、龍神に奪われた「面向不背の珠」とは、・・玉中に、釈迦の像まします。何方より見奉れども同じ、面(おもて)なるによって、面(おもて)を向こうに背かず、と書いて、面向不背の珠と申し候。(能『海士』)・・とのこと。
すなわち、どちらから見ても、珠中のお釈迦様がこちらを向かれており、そのお背中が見えない、というわけです。
この不思議の珠は、父・藤原鎌足の訃報を聞いた娘・・唐の第三代皇帝・高宗に嫁いでいた・・が唐から送った三つの宝物の一つで、鎌足を追善供養するため、興福寺(奈良)に納められるべきものでした。興福寺は藤原氏の氏寺で、鎌足の子にして娘の兄である、不比等の建立になる寺です。

海女の墓 
父・不比等と母の海女・玉藻との間に何があったのか、房前がその経緯を知るのは、房前が亡母の十三回忌供養のため、志度を訪れた時のことだったと言います。
どこからともなく一人の海女が現われ、
・・父・不比等が面向不背の珠をさがすため、淡海公(たんかいこう)と名乗って志度を訪れたこと、
・・淡海公が母・玉藻を愛し、一人の男子をもうけたこと、
・・淡海公が藤原不比等であると知った玉藻が、子の行く末を不比等に託して海に入り、珠を取り戻したこと、
・・しかし無残な姿で亡くなったこと、などを房前に語り聞かせたといいます。


高浜年尾の句碑
すべてを知った房前が、・・千基の石塔を志度寺に建てて菩提を弔い、・・「死度道場」を「志度寺」と改めたのは、前述のとおりです。
なお、能『海士』では、房前に語り聞かせた、その海女こそが、実は母の霊であったことになっています。房前は十三回忌を執り行い、母・玉藻を冥界から助け出すのです。
写真は、高浜年尾の句碑です。
   盆に来て 海女をとむらふ 心あり  年尾
年尾は、高浜虚子の長男。名は本名で、正岡子規の命名と説明板にあります。

生駒雅楽頭親正の墓
生駒雅樂頭親正は、信長、秀吉に仕えた武将です。側の説明看板には・・天正15年(1587)、(秀吉から)17万石を與えられて讃岐の国主となる。・・とありますが、たぶんこれは誤りで、正しくは、・・文禄4年(1595)12万6200石を與えられ・・だと思います。
17万石を與えられるのは関ヶ原の戦い(慶長5年/1600)後のことです。親正は西軍に与したため剃髪し高野山に入りましたが、子の一正が東軍に与して挙げた功績で旧領は安堵され、一正が、17万3千石で襲封したのです。
また説明板には、・・隣の海女の墓は「生駒家の先祖」に当たるとして志度寺を崇敬。八か条の定め書を下して志度寺の保護に力を注いだ。・・とありますが、(志度寺を崇敬、保護したことには間違いはありませんが)生駒氏が
藤原氏の裔であるについては、異論があります。


五重塔
五重塔を右に見て、細川氏寄進の庭園に向かいます。
この五重塔は、志度出身の有徳人が寄進したもので、昭和50年(1975)、落慶とのことです。
では、これ以前の志度寺に五重塔はあったのか?あちこちデータを探してみましたが、「在った」との情報は得られませんでした。因みに、上掲「志度寺図」にも、五重塔は描かれていません。

庭園
室町時代に入り、四国管領を務めた細川氏の庇護・・寺領の寄進や伽藍整備・・を受け、志度寺は栄えます。
写真の庭園も、細川氏の寄進によるものだそうです。
この庭園は、一説には、補堕落山を表しているとのことです。


長尾寺へ
東進する讃岐街道と別れ、県道3号(志度ー山川線)を南下。長尾寺に向かいます。
時刻は13:30。残る距離は約7㌔です。よほどのことでも起きなければ、16:30には宿に着けるでしょう。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
やや短めの号になってしまいました。前号コメント欄にも記しましたが、途中で断念し、削除した記事があるからです。
 ・志度寺と門前町との、支え支えられる関係
このテーマは、やはり私には大きすぎました。宿題とさせてください。
また、志度寺に来るたびに感じる、
 ・この寺の「のんびり感」は、いったいどこから来るのだろうか、
これについても書いておきたかったのですが、はたせませんでした。
H25秋2)に、こんな記事を私は描いています。
・・親しみを誘う大寺です。「鷹揚」とでも言いますか、細かいことは気にせず、ドッシリと構えている、そんな感じのお寺です。
・・私には志度で生まれ育った友人がいます。のんびりとしていて、ものに動じない、かといって鈍いのでもない、そんな人です。どこか志度寺と似ているような・・?
・・納経所でお茶をいただいて、心地よい土地の言葉を耳にしていると、ゆったりとした時間が流れてゆきます。
「鷹揚」「のんびり」「ドッシリ」「親しみを誘う」これらのことを、私は志度寺のどんなところから、感じとっているのでしょうか。それともこれは、私だけのことなのでしょうか。

とまれ、次号更新は、7月29日の予定です。次号では、長尾寺参拝まではかならず、できれば大窪寺までを、まとめてみようと思います。

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