楽しく遍路

四国遍路のアルバム

(H14秋2)秩父三十四ヶ所観音霊場

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黒谷駅
今回は秩父鉄道の、黒谷駅(現在は和銅黒谷と改名している)から歩きはじめます。
黒谷駅は、秩父札所1番四万部寺への最寄り駅です。


両神山
写真奥に見える山は、百名山両神山(1723㍍)です。伊弉諾尊伊弉冉尊両神を祀るので両神山といわれますが、むろん地名由来に定説はありません。
本来は「りょうかみ」ではなく「りゅうかみ」だった、とも言われています。諏訪湖龍神と、それを従える建御名方神(たけみなかた神)の山だったというわけです。信州と秩父の繋がりの深さを、思わせる譚ではあります。
また「りょうかみ」は、「八日見」(ようかみ)から来たとする説もあります。日本武尊が山の美しさに魅されて、八日間見続けた故事に由来する、という説です。秩父日本武尊伝説が多く伝わる地です。


道しるべ
駅近くに道しるべがありました。
  大宮道 大みやへ一里半余  左ハ 壱番道 四万部(しまぶ)へ廿六丁
「大宮」は、さいたま市の大宮では、もちろん、ありません。秩父神社神仏分離までは秩父妙見宮)の門前町として栄えた地域を、大宮とか大宮郷と呼んでいます。
「四万部」は、前述のように、秩父札所1番の四万部寺です。


和銅精錬所
四万部寺への途中、(今回は行きませんでしたが)ちょっと寄り道すると、和銅精錬所跡と和銅採掘遺跡があります。続日本紀卷四に記載のある、和銅(にぎ・あかがね)が発見され、精錬されたところです。
発見された和銅元明天皇に献じたところ、天皇はこれを大変喜ばれ、年号を慶雲から和銅(708-715)に改元されました。この和銅を使って日本最古の通貨和同開珎が造られたことは、よく知られています。
・・現在の日本最古は、平成11(1999)に奈良で発掘された富本銭で、和同開珎より半世紀ほど古いとされていますが、富本銭は厭勝銭(ようしょう銭)であって流通銭ではない、との見方もあります。


道しるべ
  右八ばん
  左一ばん みち
私たちは1番四万部寺へ向かいます。
前回は札所群の外周部(30番-33番)を歩いたため、札所間の距離が結構ありましたが、(とはいっても薬王寺最御崎寺などとは比較になりませんが)、今号では大宮郷の中心部を歩きますので、ちょこちょこと多くの札所にお詣りすることになります。


1番四万部寺山門
軽い坂を登った、その先に四萬部寺(しまぶ寺)はあります。
四萬部という寺名は、昔、幻通という僧が四萬部の佛典を読誦。ここに経塚を築いたことに由来するといいます。幻通は四萬部寺の開祖・性空上人の弟子で、師に秩父の教化を命じられ、この地にやってこられたとのことです。


1番境内
本堂(観音堂)は埼玉県指定有形文化財で、建立は元禄10(1697)だそうです。
この建物が優れていることは、13番慈眼寺に参ったとき耳にしました。その方が言うには、慈眼寺の本堂は、1番四萬部寺を模しているというのです。


13番慈眼寺
そういわれてみれば、そっくりなのです。この写真は、13番慈眼寺です。


観音堂欄間の地獄図
観音堂欄間の地獄之図です。この左には極楽之図があります。いずれも細かく彫り込まれています。
なお撮り忘れましたが、観音堂の右には「施食殿」があります。 毎年8月24日には、このお堂で大施餓鬼会が行われるそうです。関東三大施食の一つとして知られ、大変賑わうといいます。


2番真福寺
2番真福寺は1番から約2キロ。山の中腹にあります。よほど気分よく歩いたようで、メモに「風の音を聞きながら歩いた」とあります。
秩父札所三十三ヵ所は16C 半、三十四ヵ所に増えましたが、その増えた一寺が、真福寺でした。


2番納経所
真福寺は無住の寺で、そのためでしょう、線香とローソクは禁じていました。
納経は、麓の光明寺で行われています。


寒桜
3番常泉寺に向かいます。寒桜がきれいでした。


道しるべ 
  三番の道
とあります。


横瀬
横瀬川です。二子山を水源とし、荒川に合流します。


3番常泉寺石段
横瀬川に架かる橋を山田橋といいます。これを渡って左折すると、やがて3番常泉寺です。


3番常泉寺  
観音堂の彫刻が見事です。正面上に鳳凰が、その下に龍が彫られています。龍の身体は虹梁にまで延びています。


3番常泉寺  
四国の41番札所・龍光寺は長命水で知られていますが、秩父の3番常泉寺にも、長命水が湧いています。
なお(余計なことですが)秩父27番大渕寺には延命水が湧いていますので、もしよかったら長命水とブレンドし、「チョー延命水」としてお飲みになられては如何?


妙見七つ井戸
秩父盆地には多くの湧水がみられます。荒川が造った段丘崖沿いに、水が湧いてくるのです。
それらは生活用水としても使われ、街を歩くと今でも、野菜洗い、洗濯などしている姿を見ることが出来ます。
写真の水路は「妙見七つ井戸」と呼ばれているようです。秩父神社神仏分離以前、秩父妙見宮であったことに因んだ名前でしょう。


子持石
子授けの御利益があるといわれています。


4番金昌寺山門
四国札所並みの大きな山門です。
金昌寺の仁王さんは「健脚の仁王」として知られています。そんな仁王さんに、大草鞋が奉納されています。


境内
金昌寺は、石仏の寺です。境内に所狭しと石仏が並んでいます。今は1300体ほどですが、元は3800体ほどもあったといいます。
いずれもが、飢饉や災害で亡くなられた方の供養として献じられたものだそうです。一体一体が、それぞれに、悲しみの歴史を秘めています。


如意輪観音
「子育て観音」と呼ばれています。赤子にお乳を飲ませている姿は美しくもリアルです。江戸期の作といいますが、当時の仏像概念に納まっていません。
だからでしょうか?「聖母マリア観音」と呼ばれることもあるそうです。幼子キリストを抱く聖母マリアです。


本堂
金昌寺は別名、新木寺ともいうそうです。
HPによれば、・・いつの頃か、荒木(あらき)丹下という酒癖の悪い荒くれ者が、金昌寺のご本尊・十一面観世音により改心させられ、仏道に帰依したことから、金昌寺は新木寺(あらき寺)とも呼ばれる。・・とのことです。


武甲山
武甲山が見えます。武甲山の採掘されている面は、ほぼ北向きです。つまり私たちは今、ほぼ南に向かっているわけです。
なお採掘は、石灰岩の採掘です。大正6(1917)、日本最初のセメント工場・浅野セメントが操業を開始。日本のコンクリート化?に貢献してきました。テレビのブラタモリは、 これを「日本を支える白い岩」と紹介しています。


5番語歌堂
無住の札所です。納経は、近くの長興寺で行われています。長興寺は、かつて語歌堂の別当寺でした。



語歌堂の名は、この観音堂の建立者である本間孫八が名付けたとされています。
譚に曰く、・・ある日、旅の僧が孫八の観音堂を訪れました。僧は孫八を相手に、終夜、和歌について語り、明け方、どこへともしれず去って行きました。
・・僧の話に感じ、和歌の奥義にふれることができた思いの孫八は、観音堂を語歌堂と命名。僧を長く偲んだといいます。なお孫八は、僧は聖徳太子が化身されたお姿ではなかったか、と考えていたといいます。


武甲山
かつて武甲山の標高は、1336㍍でした。しかし後に、山頂が削られたとして、1295㍍に訂正されました。11㍍低くなったわけです。
ところが、H14(2002)11月。1295㍍地点よりも高い所が見つかったとして、そこへ三角点が移ってしまいました。結果、標高は再び訂正され、1304㍍になり、これが現在、公式標高として採用されています。


6番卜雲寺本堂
卜雲寺は、武甲山との縁が深い札所です。ご本尊は行基菩薩の御作とされる聖観音菩薩で、かつては武甲山頂の蔵王権現に祀られていました。
聖観音菩薩像が卜雲寺に遷る経過が、聖観音菩薩が悪戯大蛇を退散させた譚として伝わっています。観音さまを有り難く思った村人は、大蛇が棲んでいた池を埋め立て、そこに荻野堂を建てて、聖観音菩薩をお祀りしたというのです。
卜雲寺が荻野堂という別名を持つのは、この譚に由来しています。
なお卜雲寺の寺名は、卜雲寺開基の、嶋田与左衛門の法号・卜運源心庵主に由来するとのことです。


6番卜雲寺
また卜雲寺には、子供をさらうなど悪戯をしては村人を困らせた、武甲山に棲む山姥の譚も伝わっています。
山姥は行基菩薩により捕らえられて改心。解き放たれるとき、二度と悪さはしないことの証として前歯と奥歯を抜き、寺に残したのだそうです。その歯は今も卜雲寺に、寺宝として残っているといいます。


7番法長寺
山門をくぐると、平賀源内が原図を描いたという、大きな本堂が見えてきます。
入母屋の本堂に、少し脇に寄って向拝がつき、本堂内には観音堂が組み込まれています。「やっぱり源内」です。
私たち四国遍路をする者にとって見逃せないのは、観音堂正面の欄間に彫られた彫刻です。四国86番志度寺の縁起「玉取伝説」が掘られているのです。これって、源内の故郷自慢でしょうか。源内は、志度の生まれです。
「玉取伝説」は、藤原不比等と玉藻(海女)の、切ない恋の物語です。(→(H25秋2))に、少し詳しく記しました。よろしければご覧ください。


7番法長寺
  御詠歌  六道を 兼ねて巡りて 拝むべし 又後の世を 聞くも牛伏(うしぶし)
御詠歌にもあるように、法長寺は牛伏堂とも呼ばれています。その名の由来譚はいくつかありますが、そのうちの一つは、・・
・・引いていた牛が突然、伏して動かなくなったので、不思議に思い調べてみると、牛が伏していた所から、十一面観音像が顕れました。法長寺はこれを本尊として祀ったので、牛伏堂とも呼ばれています。


8番西善寺本堂工事
西善寺のHPは御本尊について、次のように記しています。・・當寺はご本尊に阿弥陀三尊をお祀りし、寛正元年(1460)より続く禅宗寺院です。またそれ以前、文暦元年甲午(1234)、秩父三十四観音霊場の一つとして十一面観世音菩薩坐像をお祀りし、観音信仰を守り続けております。
ご本尊は観音さまではないのだが、十一面観音(伝恵心僧都作)を秘仏として祀り、観音霊場の一に列している、ということのようです。


8番西善寺
何回か火災に遭った後、現在の本堂は弘化2(1845)に再建されたようです。
そして今(H14)、修復の手が加わりつつあります。

    
もみじ
西善寺の「こみね・もみじ」です。樹齢は約600年とか。


西武鉄道横瀬駅
すっかり遅くなりました。今日は、ここで打ち止めです。
西武鉄道横瀬駅から秩父駅に移動し、駅近くに宿をとりました。


秩父駅
翌日はあまりにも快晴。当初の予定では、9番10番・・と市街地の札所を考えていましたが、急遽予定を変更。荒川を越えた向こう側の、長尾根を歩くことにしました。
写真は秩父鉄道秩父駅地場産業センターです。


17番定林寺へ参道
定林寺は、現在は17番札所ですが、長享2(1488)の札所番付・・長享番付と呼ばれている・・では、1番札所でした。
長享番付が変更され四萬部寺が1番に変わったのは、16C 半頃とされています。江戸から秩父への道には吾野道、熊谷道、川越道がありますが、四萬部寺はちょうど、熊谷道と川越道の交差する所に在り、江戸から来る巡拝者には、1番四萬部寺が好都合だったのです。四国遍路の1番2番・・10番が、近畿からの巡拝者に配慮し、撫養街道沿いにおかれているのと同じです。


17番定林寺本堂
定林寺は地元では、林寺と呼ばれているそうです。というのも、この寺、もともとは林家の持寺だったからです。林家は妙見社(秩父神社)の触役(お触れを下達する)の家柄だったと言います。
「定林寺」は、主の非道でこの地に没した林家の太郎定元を偲び、その定と林を戴いたものだ、とのことです。


銅鐘
西国・坂東・秩父の百観音が浮き彫りされています。また御詠歌も彫られています。
音色の良さはよく知られており、埼玉県の指定有形文化財に指定されています。


18番神門寺(ごうど寺)
神社じゃないのに、神門とは、これ如何に。
境内の案内板は、つぎのような次第を記しています。
・・昔、この地域に神社があって、その大きい榊は枝を左右に分かち、空に伸びていたそうです。その様が楼門に似ていたので、神門と称し、誇りとしていたといいます。
・・ところが年を経て、欅も枯れ、神社もすたれてきました。これを見て里人は再建を思い立ち、如何にせんか神様に伺うたところ、不思議にも巫女を通じて“寺にせよ”とお告げがあり、里人はお堂を建て、聖観世音菩薩を安置した。・・のだそうです。かくて神門という名の寺が誕生したというわけです。


18番神門寺
観音堂の廻廊には、(恐れ多くてカメラは向けられませんが)、大日如来、千手菩薩、文殊菩薩虚空蔵菩薩、釈迦如来などが祀られています。ぜひ一回りしてみては、いかがでしょうか。


しるべ石
  みぎ十九番
・・心求(高橋喜兵衛)・はまを願主とする道標で、江戸元禄・宝永の頃、建てられた・・とあります。

19番龍石寺
大きな岩盤の上に建っています。
・・渇水で雨乞いをしたところ、岩が割れ、龍が飛び出し、雨を降らせた、と伝わります。寺名の興り譚です。


19番龍石寺
四国の14番常楽寺を思い出しました。


荒川
秩父橋を渡り、荒川を越えます。


20番岩之上堂
今は橋が架かっているので、上から見下ろしてしまいますが、橋がなく渡し船だった頃は、下から見上げていたに違いありません。
岩之上堂という寺名は、どう考えても、下から見上げてつけた名前です。見上げたら、崖の上に堂が建っている、と見えたのでしょう。そう見えたので、そう名付けました。


観音堂
岩之上堂は、江戸時代から続く旧家、内田家の持寺。江戸初期の造営で、秩父札所では最も古いとされています。


虚無僧 
虚無僧の一行ですが、もう普化宗は絶えていますから、尺八を趣味とするグループだと思います。しかし雰囲気のある方達でした。


21番観音寺(矢之堂)
矢之堂の「矢之」は、「矢納」だともいわれています。
矢を納めたのは日本武尊だとか、いや平将門だとか、あるいは八幡大菩薩が放った矢が納められているのだとか、諸説あるようです。


景色
写真奥の二本柱は、秩父公園橋の塔です。秩父公園は、後出の秩父ミューズパークをいいます。この橋を渡り返して直進すると、秩父鉄道秩父駅です。


公園橋・ハープ橋
この塔から張った何本ものケーブルが楽器のハープに見えることから、ハープ橋とも呼ばれています。


22番童子堂(永福寺
茅葺きの仁王門が見えてきました。
両脇に立つ仁王様は、阿像も吽像も、寺名の通り、愛くるしくて親しみやすい、童子のようなお顔をされています。


仁王さま 
この寺は、子供を病魔から守る観音さまの寺として、信仰をあつめています。


本堂
明治期、童子堂は永福寺(当寺は栄福寺)の管理下に入り、蒔田村から現在地に移されたのだそうです。その関係で、22番童子堂(永福寺)とされています。


案内図
23番音楽寺へ向かいます。徒歩約40分とあります。


小鹿坂峠
小鹿坂峠を越え、音楽寺にに向かいます。昔の道がよく残っています。。


小鹿坂峠の十三権者
  音楽寺御詠歌  音楽の 御声なりけり 小鹿坂の 調べにかよう 峰の松風
松吹く風を、菩薩が奏でる楽の音と聞いた十三権者は、この寺に音楽寺の名を授けました。十三権者は、文暦元(1234)甲午3月18日、秩父札所を開創したとされる人たちです。「権者」は、人の姿を借りて顕れた仏や菩薩をいいます。


十三権者
小鹿坂峠の石仏は十三体あります。きっと十三権者でしょう。


十三権者
十三権者は、大宮郷を見渡しています。ただ残念ながら、その視界の中に家が建ってしまいました。


23番音楽寺
明治17(1884)11月2日朝。ここ音楽寺は、秩父事件の大舞台になっていました。
境内には八千とも一万余ともいわれる秩父困民党軍の兵士たちが集結していたのです。彼らはこれより、眼下の大宮郷を制圧しようとしていました。大宮郷秩父郡の中心です。


音楽寺本堂
なぜこのような事態となったのか、彼らの生活を直撃したことの、いくつかを記しておきます。
・・地租改正による農村経済の激変。世界不況と松方財政のデフレによる生糸価格の暴落。暴落による収入の激減(秩父は生糸生産を主産業としていた)。米価の高騰(山村のため自給できず、米は買っていた)。重課税。徴兵(主要な稼ぎ手を失う)。義務教育(子供も欠かせない働き手でした。学校建築費、教育費の負担)。秩父新道工事への強制労働(働き手を出せない家は金納を強制された)など。


音楽寺から見た大宮郷武甲山
・・やむなく高利貸から借金。嵩む利息。執拗、冷酷な取り立て。借金据え置きを嘆願するも、お上は耳を貸さず。「身代限り」(身代を没収し返済に充てさせる)が続発する。
・・こうなれば、もはや起つほかなしと、11月1日、「負債農民」たちは下吉田の椋神社(前号参照)に集合。五箇条の軍律の下、秩父困民党「軍」を編成したのでした。


梵鐘
秩父困民党軍は同日、高利貸が多く住んでいた小鹿野を制圧。借金証文類を焼却。この夜を諏訪神社(後の小鹿神社・前号参照)に野営し、翌2日早朝、音楽寺に軍を進めたてきたのでした。
合図の銃声とともに攻撃は開始され、困民党軍兵士たちは大宮郷へ駆け下りました。その間、寺の梵鐘は、鳴り続けていたといいます。


梵鐘
困民党軍は郡役所、警察、裁判所を制圧。高利貸を襲撃しました。
郡役所には本陣が置かれ、そこは「革命(党)本部」とも呼ばれたようです。発行書類には「革命(党)本部」の署名が入っていたといいますから、あるいはフランス革命の影響かもしれません。また元号に「自由自治元年」が使われたり、西南戦争における西郷軍の大義「新政厚徳」の幟旗が使われたりもしたようです。


椋神社の青年像
ただし、このような認識がどこまで全軍に行きわたっていたかは、わかりません。
私見では、これらは「突出した」人たちの、心情の表現だったと思われます。「負債農民」の大半は、革命って何?なんて思いながらも、「まあ、悪いことではなかろう」くらいに、大様に受け入れていたのだと思います。
この「大様さ」は、なにかと尖りがちの今日、大いに学びたいと思います。


椋神社の秩父事件関係略図
さて、この後の戦闘の様子は略させて戴きます。「事件」の終焉部のみを略記します。
・・秩父困民党軍は、秩父盆地から関東平野部へ抜け出すことを企図していました。平野に出て、各地の勢力を糾合しようとしたのです。そして、中央政府に物申す。
しかし、それはかないませんでした。中央政府の軍、憲兵隊、警察が、数少ない盆地出口(前号参照)を固めたからです。激しい戦闘の後、11月4日午後、「革命本部」は崩壊。秩父困民党としての統一的な作戦行動は、この時点で終了しました。


秩父事件関係図拡大
残存部隊の戦闘について、略記しておきます。
彼らは関東平野への進出をあきらめ、上州に出、十石峠(上州上野村と信州佐久の間)をこえて信州に転戦。最後の戦闘は、11月9日、佐久郡小海町・東馬流(ひがしまながし)の戦闘だったといいます。


秩父困民党無名戦士の墓
昭和53(1978)、「秩父困民党決起百年記念事業」として建立された、無名兵士の墓です。
(私は見ていないのですが)「決起」の50年後に建立された、「秩父困民党戦死者の墓」が、東馬流にあるそうです。ただし墓銘は、「秩父暴徒戦死者之墓」です。むろん好き好んで「暴徒戦死者」と刻んだのではありません。「秩父困民党戦死者」では、建立が許されなかったのです。


百年記念の碑
音楽寺に建立された「無名兵士の墓」は、思うに、東馬流の墓を建立した人たちと、そこに埋葬された人たちの、「無念」の気持ちを忖度し、建立されたのでしょう。秩父困民党戦死者にかんしては「死んだらみんな仏さま」でさえない、その不寛容さへの怒りが、文言から感じとれます。
  われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを 拒否しない


24番法泉寺石段
私と北さんが歩くと必ずのように、その日の終わりの部分でマキが入ってしまいます。
この日もそうでした。時刻はすでに15:45。日没まで1時間もありません。なのにこの後、25番久昌寺に参って浦上駅まで、5キロ弱を歩かねばなりません。
急ぐ身に、この石段はつらい。


24番法泉寺
寺のHPが興味深い縁起を伝えています。・・縁起によると、 越中立山、加賀白山を中心に活躍した修験僧の泰澄大師(767年寂)がこの地に至った。ある夜、気高き姫神が天降り、枯木を三段に伐って本と未で山神を祀り、 真中の部分で聖観世音を刻し「我は日の神なり」と名乗られると、さらに三柱の神が現れ、真中の神が「我はこの山の奥に住む白山姫の神である」と名乗った、とある。 日の神は天照大神で、伊勢信仰に白山信仰が加わったものと考えられ、 御詠歌の「天照らす」「雪の白山」はそれによるものと思われる。
  御詠歌  天照らす 神の母祖の 色かへて なおもふりぬる 雪の白山


浦山ダム
浦山ダムが見えてきました。
秩父鉄道浦山口駅から徒歩20分。ダム内部と防災資料館が一般公開され、自由に見学することが出来ます。またダム湖は「秩父さくら湖」と名付けられているとおりに、時季には花咲き乱れるといいます。


25番久昌寺(御手判寺)
ギリギリ納経には間に合いましたが、もう暗くなっています。
そのため、弁天池や武甲山などの景観は、見ること能わず。早々に浦上口駅へ向かいました。


久昌寺の別名
久昌寺は、御手判寺(おてはん寺)とも呼ばれています。・・播磨国書写山性空上人(しょうくう上人)が秩父札所を巡られた時、閻魔大王から授かった石の手判を当寺に納めたことから、この名がついた・・とのことです。
性空上人は今号の冒頭にも、1番四萬部寺の開祖・絃通の師として登場しています。御手判は、極楽への通行手形です。


浦上口駅
秩父鉄道浦山口駅です。
駅前広場などはありません。真っ暗な民家の、裏の狭い坂を登ると駅に出ます。

さて、ご覧いただききまして、ありがとうございました。今号で秩父音霊場巡りは終わりにしようと考えていたのですが、ついつい長くなってしまいました。そこで次号もまた「秩父三十四ヵ所観音霊場」と題して、(その3)をご覧いただくことになります。更新は3月3日の予定です。
新型コロナ、どうか気をつけられますように。

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