令和7年11月13日 初日

讃岐国分駅
令和7年1月の「試し歩き」に続いての、区切り歩きです。今回は88番大窪寺まで、結願をめざして歩きます。
歩き始めは、前回、参拝できなかった80番国分寺です。ここでは参拝のほか、讃岐国分寺跡資料館、国分寺跡史跡の見学に、少し時間をかけます。讃岐国分寺は、天平の名残をとどめる、数少ない国分寺だからです。
国分寺と国分尼寺が建っていたころの様子
というわけで、まず「讃岐国分寺跡資料館」を訪ねました。
写真の絵は、資料館編集のパンフレットに掲載されているものです。創建の頃、あるいはこんな景色が見られたであろうかと、描かれています。
左が国分寺、右が国分尼寺です。両寺は互いの梵鐘の音が聞こえる範囲内に建てられている、との話を聞いた覚えがあります。なお国分尼寺については、→(H25初夏9)
をご覧ください。
碁盤目の田圃
背景の山は、左が国分台、右が猪尻山です。左端に山裾のみが見えているのは、連光寺山でしょう。
国分台山裾の池は、現在もある、神崎池でしょう。碁盤目状の田圃は、条里制に基づく田圃です。神崎池から水を得て、豊かに実っています。

讃岐国分寺跡資料館
讃岐国分寺跡資料館です。閉館時間は(国分寺と同じ)16:30まで。
現在時刻は15:20なので、資料館見学、参拝、史跡見学にそれぞれ20分余を予定してみました。
入館料は、65歳以上は無料とのこと。むろん私はとうに65歳以上の有資格者。幾分老残を恥じながら、無料で入れていただきました。
石琴
特別な展示(個人提供のもの)をのぞいては、撮影可ということで、たくさんの貴重な資料を撮影させていただきました。そのうちで、直に私の遍路とかかわる数枚を、ご覧ください。
入口脇に休憩室があり(荷物を置いておくことができます)、そこに石琴が展示されていました。「ロンドン橋」が演奏できるようになっています。音を出してみましたが、澄んだいい音色です。
石は、カンカン石と親しみやすい名で表記されていますが、別名、サヌカイト、讃岐石などとも呼ばれます。このこと、前号で記しましたので、ご覧ください。→(R7冬7)

府中山内瓦窯跡の解説図
(やはり前回訪れた)府中山内瓦窯跡の解説図が展示されていました。天平の昔・・8世紀・・国分寺や尼寺の瓦を焼いた窯です。
こういったことに詳しくない私には、・・これはすっかり登り窯ではないか・・と思われるのですが、どうなのでしょうか。
というのも、登り窯の歴史を調べてみると、・・

府中山内瓦窯跡(令和7年1月撮影)
・・登り窯は16世紀後半、中国・朝鮮半島から唐津に伝わった・・とされています。
つまり府中山内瓦窯が実働していた天平の昔・・8世紀・・、日本にはまだ登り窯は、存在していないことになっているのです。
府中山内瓦窯は、どこがどう違って、登り窯ではないのでしょうか。
写真は前回撮ったもので、上掲写真の文中にある・・完存する1基・・です。窯の内部は、残念ながら草が茂っており、見ることはできませんでした。
訂正:登り窯の歴史について、marimariさんからコメントで、次のようなご指摘を受けました。
・・「登り窯」ですが、飛鳥時代には既に登り窯は存在していたのではないかといわれているようです。
参考URL
https://adeac.jp/tondabayashi-city/text-list/d000010/ht000457
https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht1025502090
この追加掲載を以て、登り窯16世紀渡来という私の記事の、訂正とさせていただきます。

本瓦葺き
府中山内瓦窯で焼成されたであろう丸瓦、軒丸瓦、平瓦、軒平瓦です。
当時の瓦屋根は、平瓦と丸瓦で葺いて土で固定する、「本瓦葺き」でした。その重厚感が魅力の瓦葺です。
ただし、「本瓦葺き」は本当に重いので、寺社のような、その重量に耐えうる堅固な躯体を持つ建物でしか、使えませんでした。
桟瓦
瓦屋根の軽量化が図られるのは、17世紀、「桟瓦」が工夫されてからだと言われています。桟瓦という波型の瓦・・今日でもよく見られる瓦です・・を一種類だけ使って葺くので、うんと軽量化が図られました。
大津の瓦師・西村半兵衛によって発明されたとのことですが、オランダの影響を受けているなどとも言われています。
80番国分寺仁王門
80番国分寺へ移動しました。
いえ、厳密には、「国分僧寺」へ移動した、と言うべきでしょうか。
聖武天皇は天平13年(741)、「国分寺建立之詔」を発し、
・各国に七重塔を建て、金光明経と法華経を納めること。
・国ごとに国分寺・・国分僧寺と国分尼寺・・を設置すること。
僧寺の名は金光明四天王護国之寺とし、尼寺の名は法華滅罪之寺とすること。
を命じています。よって、今で言う「国分寺」は、厳密には「国分僧寺」です。
讃岐国分僧寺跡図
まず高松市教育委員会が作成した、かつての讃岐国分寺跡図を見てみます。
大きく築地塀で囲まれた寺地の西寄り(左寄り)に伽藍が配置されています。なぜこのようになっているかは、(私には)わかりません。
建物は、基本、南北の線上に配置されています。
これを現在の並びと比較すると、
南大門 ー 中 門 ー 金 堂 ー 講堂 ー 僧 房
(なし)ー 仁王門 ー(礎石残る)ー 本堂 ー (礎石残る)
となります。中門があった位置に仁王門が建ち、講堂の跡に本堂が建っています。

江戸時代の境内
いつの頃に現在の形が形作られたかは(私には)わかりませんが、察するに、現・本堂の再建が鎌倉中期(13世紀)であるとのことなので、その頃かそれ以前に、創建時の伽藍配置を下敷きにして再建。それが現在にまで伝わっている、ということではないでしょうか。
因みに元禄二年(1689)に発刊された、『四国遍礼霊場記』(澄禅)掲載の境内図を見てみると、その主要部分は、現在とほとんど変わりがありません。

元・金堂の礎石と元・講堂の本堂
参道の左右に、見事な礎石が並んでいます。かつて金堂で使われていた礎石です。
『霊場記』の図(上掲)を見ると、この礎石は○○で描かれ、「金堂跡」との書入れがあります。
奥の本堂も、描かれています。書入れが「観音堂」となっているのは、そこに御本尊、十一面千手観世音菩薩が祀られているからです。
なお本堂は、旧講堂の礎石を利用して再建されたもので、国の重文に指定されています。

金堂復元模型
写真は、かつて建っていたであろう金堂の、復元模型です。国分寺跡資料館の展示からお借りしました。
残る礎石の規模から判じて、奈良の唐招提寺金堂と同規模の金堂であったろう、とのことです。

礎石の使われ方
仁王門の礎石と柱です。掘っ建て式では柱が沈み込むので、それを避けるため、礎石の上に建てています。
本堂
本堂の近景です。手前に写る橋、池とも、『霊場記』図に描かれています。ほとんど変わりがないことがわかります。
本尊の十一面千手観世音菩薩は、60年に一度の開帳とのこと。次回開帳は、2040年だそうです。十一の面で人々の苦しみを見逃さず、千の手で、もらさずそれを受け止めてくださる、有り難い観音様です。

七重塔礎石
国分僧寺跡図にも霊場記の図にも記載がある、七重塔の「塔跡」です。仁王門を入ったすぐ右に、あります。
石塔が立っている礎石は、塔の心柱が立てられていた「心礎」でしょう。
想像図
「讃岐国分寺跡資料館」でいただいたパンフから、スキャンさせていただきました。
七重塔は、・・現在の日本一の高さである東寺五重塔よりも高かった・・と考えられているそうです。
左に金堂が描かれ、回廊が伸びています。描かれていませんが右には、中門が在るはずです。回廊は、金堂と中門を東西に結んで、います。
梵鐘
平安時代前期あるいは奈良時代の鋳造とされ、国の重要文化財となっています。
高松藩主・生駒一正が、一時、城に持ち帰っていたそうで、その実話にまつわる怪異譚や、弓名人・別次八郎が大蛇から取り上げて、寺に寄進した譚などが伝わっています。 →(H21春1)
復元模型・平成21年(2009)撮影
ただし鐘楼の位置は、創建時と再建以後では異なっています。現在の鐘楼は、『霊場記』の図と同じ位置(池の手前)にありますが、創建時は、違っていました。
創建時の国分僧寺模型をご覧ください。小さな二階家が見えます。これが当時の鐘楼です。
鐘楼は、講堂の東に在りました。案内板は、次のように記しています。
・・鐘楼は、僧侶が共同生活を行ううえで必要な時刻を知らせる建物です。金堂もしくは講堂から離れて西に経蔵、東に鐘楼と対称に配置されたようです。(ただし経蔵跡は、未発見です)。
鐘楼跡
鐘楼跡とされている所です。
案内板は、・・ここでは盛土をして基壇をあらわし、新しい礎石をならべて規模をしめしました。・・と記しています。礎石は、創建時のものではありません。
規模は、高松市公式ホームページ「もっと高松」によると、次のようです。
・・南北6.3㍍(柱間3間)、東西4.2㍍(柱間2間)の南北棟の礎石付き建物です。二階建てで、講堂の東側にあるので、鐘楼跡とかんがえられます。
鐘楼は、今と違って、二階屋だったようです。そういえば『霊場記』図の鐘楼も、二階屋であるように描かれています。
築地塀
寺域全体を囲む築地塀の一部が、30メートルにわたり、復元されています。この塀の外側には、堀が巡らされていたとのことです。
築地塀は、横筋が入っていることからもわかるように、版築(はんちく)工法で造られています。版築とは、・・土壁や土壇の築造法で、板で枠を作り、土をその中に盛り、一層ずつ杵でつき固める工法で、古く中国の竜山文化に始まり、現在まで存続している。(広辞苑)・・です。なお竜山文化は、紀元前3000年~1500年頃の文化とされています。
玉門関
平成18年(2006)に撮った、敦煌の北西約90kmにある、玉門関です。陽関とともに、漢代の西関でした。
玉門関の版築
近づいてみると、やはり版築工法で築かれていました。2000年以上も前のものが、まだこのように現存しているのですから、版築は、よほど優れた工法なのです。
とはいえ、案内板によると、・・30mの築地塀を復元するために要した作業員の人数は、のべ855名ほどだった・・とのことです。
とすると、東西220m,南北240mの寺域を囲む築地塀を築くには、いったいどれほどの人数が必要だったのでしょうか。いわんや玉門関においてをや。
僧房跡
僧房遺構について、「もっと高松」は、次のように記しています。
・・僧房跡は、現本堂の北側に位置し、もとは水田でした。
つまり僧房跡は、(うわさや口伝はあったでしょうが)大方の人には知られることなく、長く地中に眠っていたわけです。
そういえば『霊場記』図では、本堂後ろには、なにも描かれていません。僧房跡の存在は、ほとんど意識されなくなっていたのでしょう。
僧房
次の文をお読みください。
・・遺構の残存状況がきわめてよいことを積極的に活用するために,僧房跡の東半分に覆屋を建設しました。これは発掘当時の興奮を味わってもらう臨場感を演出するものです。また,覆屋内の礎石の上に僧房を一部復原しました。
僧房跡発見時の、驚き、興奮、期待が伝わってくる文です。
覆い屋の中
本格的な発掘調査が始まったのは、昭和58年(1983)のことだそうです。その結果、次のようなことがわかってきています。
・僧房が機能していたのは、11世紀頃までであろう。9世紀中頃と10世紀中頃、瓦の葺き替えなどの修繕がなされた形跡が見られる。
・その後、建物はなくなってしまってしまい、鎌倉時代の再建以降、その跡地では井戸が掘削され、伽藍の修繕のための鋳造や鍛治などが行われていたらしい。
僧房の再現
覆い屋の中には、僧房での暮らしの様子が再現されています。
この復元の完成は、平成元年(1989)でした。
掘立柱の建物
講堂の西側に発見された、掘立柱の建物跡です。
建物の用途はわかっていませんが、・・僧房を補完する施設・・と推測されています。木材は、掘っ建て穴が在った所を示しています。

国民旅館せと
17:00少し前、宿に入りました。ここは、前回の最終夜をお世話になった宿でもあります。私と年齢の近いご主人が変わらずお元気だったのは、うれしいことでした。
前回は、台湾から見えたご夫婦と同宿でしたが、今回は、男性の歩き遍路の三人と一緒でした。いずれも元気な方たちで、翌朝宿を出た後は、もう、どなたとも会うことがありませんでした。白峰寺での折り返しや根香寺の折り返しで会えるのではないか、そんな期待もしてみましたが、間違いでした。
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。讃岐国分寺の一ヶ所に絞って記してみましたが、どうだったでしょうか。
次号では、80番国分寺から81番白峰寺へと、老いぼれが登ってゆきます。更新は2~3週間後の水曜日です。
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